耐震バックチェックの法的意味づけと保安院、原子力安全委員会の見解の意義
高尾課長、酒井GMはなぜ、津波対策は不可避であると考えたのか?
被害者参加代理人
海渡 雄一
目次
1 高尾証人と酒井証人の証言のハイライト
2 伊方最高裁は基準の合理性の判断基準は現在の科学技術水準とした
3 新指針の早期策定の引き金は志賀判決
4 保安院による原子力安全委員会に対する強要
5 2006年4月保安院指示文書の犯罪的な内容
6 保安院指示に屈した原子力安全委員会
7 安全委による電力への強い指示
8 福島第一耐震バックチェック2009年6月期限は絶対的なものであった
9 2006年の保安院が持つ二面性
10 福島第一の耐震バックチェックの遅れの原因は不明
11 運転を継続する以上原発の安全対策はどれも緊急で切迫したものである。
PDF版はこちら
参考資料
1 高尾証人と酒井証人の証言のハイライト
高尾証人は主尋問では、推本の長期評価に基づく津波対策は必要だと考えていたと述べ、これを進言した2008年7月31日の二回目の会議で、武藤被告人が「研究を実施しよう」とのべて、津波対策の実施を受け容れなかったとき、力が抜けて、その後の武藤被告人の言葉を覚えていないと証言した。これに対して、反対尋問では、津波対策は必要だと考えていたが、津波対策が切迫性のあるものとは考えていなかったとも証言した。第8回、第9回公判が4月21日、24日に開かれ、東京電力の土木調査グループのGM(ジェネラル・マネジャー)であった、酒井俊朗氏が証言した。酒井氏は、推本の長期評価を取り入れた津波対策の必要性を2007年11月頃から検討を始め、2008年1月には、土木調査グループとして、バックチェックにおける基準津波高について、推本の長期評価に基づいて明治三陸沖のモデルを福島沖に置いたモデルでの津波高の計算の依頼を東電設計に行い、この発注には吉田部長の了解を取りつけ、この承認書は他の対策工事を行うグループのGMにも共有したことを説明した。
酒井氏は、推本の長期評価については、なぜどこでも津波地震が起きるのかの根拠が書かれておらず、日本海溝沿いのプレート境界の構造について南北での構造の違いを指摘する専門家の見解も存在したので、根拠が明確ではないと考えていたが、2008年2月頃に高尾氏が、見解を聞きに行った際に、保安院の審査に当たる専門家である東北大学の今村文彦氏が推本の長期評価を取り入れるべきであると言っていることなどを聞き、推本の見解を取り入れなければ、耐震バックチェックで保安院の了解を得ることは難しいと考え、社内の他の部署や上層部を説得しなければならないと考えたと述べた。
2008年2月当時から、酒井氏については「津波対策を中間報告に入れるかどうかではなく、きちんとした対策がとれるかが問題だ。」「詳細計算をすれば、津波の高さは高くなる。」「地域に説明しなければ津波工事はできない」「地元説明はセンシティブな問題となる」「(津波の予測高さとその対策を公表すれば、)地元から停止を求められることもあり得る」などの発言やメールが記録されている。
早急に対策を講じなければ、計算結果を公表した段階で、自治体等の対応により、炉の停止に追い込まれるという危機感を持っていたことを認めたといえる。
2008年6月10日に武藤被告人に津波対策を進言した時点では、高尾証人と同じく、その年の秋には津波対策工事の概略案を土木調査グループで確定し、他の土木建設、建築や耐震技術などのグループに引き取ってもらい、津波対策工事を進めようという考えであった。
この過程で、想定津波高さを下げるために、南の延宝房総沖に波源を移して、津波の規模を小さくする方向や、詳細なパラメータースタディを実施しないという考えも出されたが、いずれも、保安院のバックチェックの審査の過程で、明治三陸沖を波源とし、詳細なパラメータースタディを行うという、より厳しい想定をとらない理由の説明を求められると、説明ができず、対策の練り直しを迫られるリスクがあり、酒井氏は高尾氏の提案に同意した。
このように7月31日までの対応については、力点の置き方は違っても、津波対策の早期実施が必要であると考えていた点では、酒井氏と高尾氏の証言は重なり合うものであった。
武藤氏の対応は自分の考えとは違うが合理性がある/時間稼ぎだったかもしれない
すなわち、この日の会議では、酒井氏が主として説明に立ち、高尾氏は確率論の部分の説明を担当した。武藤氏は「波源の信頼性が気になる。第三者にレビューしてもらう。」と述べ、酒井氏は、「明治三陸沖の波源は信頼性はないが、安全側で使っている」と答えた。武藤氏は「外部有識者に頼もう」と述べ、酒井氏は、「土木学会しかない」と答えた。酒井氏は、この日の結果は自分の想定とは違っていたと述べた。それで、酒井氏は、「第三者に頼んでいては、バックチェックには間に合いませんよ」と武藤氏に言い返している。武藤氏は、「有識者の方々に、東電として対策をとらないわけではない。バックチェックは土木学会津波評価で行うが、対策が必要となれば、きちんと実施すると説明して理解を求めてくれ」と応じ、酒井氏は、これに同意したというのである。
この日の結論が酒井氏にとっても、予想外であったことは、すぐに酒井氏が東北電力や日本原電に、東電の津波対策の方針が変更になったことを知らせていることからもわかる。また、2008年8月18日の酒井氏の高尾氏らに向けたメールには、貞観の津波に関連して、「貞観地震のモデル化について、電共研でさらに時間を稼ぐのは厳しくないか」などの記載もあり、武藤氏の示した方針が「時間稼ぎではないか」と渋村晴子指定弁護士に問われて、「時間稼ぎと言われれば、時間稼ぎだったかもしれない」と認めている。
福島原発事故刑事訴訟において、津波対策が現実に求められていたのだと言うことを理解するには、2006年から開始されていた耐震バックチェックの意味を正確に理解する必要不可欠である。
2 伊方最高裁は基準の合理性の判断基準は現在の科学技術水準とした
伊方最高裁判決は違法性の判断は行政庁の判断に不合理な点があるか否かという観点から行われるべきであって「現在の科学技術水準に照らし、右調査審議において用いられた具体的審査基準に不合理な点があり、あるいは当該原子炉施設が右の具体的審査基準に適合するとした原子力委員会若しくは原子炉安全専門審査会の調査審議及び判断の過程に看過し難い過誤、欠落があり、被告行政庁の判断がこれに依拠してされたと認められる場合には、」違法と判断するべきであるとしている。この伊方判決の考え方は、原子力安全に関わる電力担当者、行政担当者にも共有されていた。
3 新指針の早期策定の引き金は志賀判決
原子力安全委は 2001 年に「耐震指針検討分科会」を設置し指針改定に着手した。議論は長期化したが、2006年3月に金沢地方裁判所が、北陸電力志賀原発2号炉の運転差止判決を下した。この判決は伊方最高裁判決の枠組みに照らして、旧耐震設計審査指針を審査基準として不合理であると判断したものであった。
民事訴訟においても、伊方判決の考え方を基本にして、原告勝訴の判断ができることを示したのが、金沢地方裁判所(井戸謙一裁判長)による2006年3月24日志賀二号炉運転差止判決(判時1930号25頁)である。
この判決当時には原子力発電所の耐震設計審査指針は、2001年から始まった改訂作業の途上であった。判決は耐震設計が妥当であるといえるためには、直下地震の想定が妥当なものであること、活断層をもれなく把握していることと、耐震審査指針の採用する基準地震動の想定手法(いわゆる大崎の方法)が妥当性を有することが前提となるとしている。
とりわけ、同判決は平成17年3月に発表された政府の地震調査委員会が、原発近傍の邑知潟断層帯で一連の断層が一体として活動してM7.6程度の地震が発生する可能性を指摘しているが、被告はこれを考慮していないとの原告の主張を全面的に認め、被告の断層の把握は不備であるとした。そして、「被告が基準地震動S2を定めるに当たって考慮した地震の選定は相当でなく、基準地震動S2の最大速度振幅は、過小に過ぎるのではないかとの強い疑いを払拭できない。」とした(同上70頁)。また、これまでの原発耐震設計上の方法である「松田式、金井式及び大崎スペクトル並びにこれらを総合した大崎の方法は、経験的手法として相当の通用性を有し、原子力発電所の耐震設計において大きな役割を果たしてきたということができるが、地震学による地震のメカニズムの解明は、これらの手法が開発された当時から大きく進展していて、これらの手法の持つ限界も明らかになってきており、他方、これらの手法による予測を大幅に超える地震動を生じさせた地震が現に発生したのであるから、現時点においてはその妥当性を首肯し難い。そうすると、これらの手法に従って原子力発電所の耐震設計をしたからといって、その原子力発電所の耐震安全性が確保されているとはいい難いことになる。」(同上74頁)「本件原子炉施設の耐震設計については、その手法である大崎の方法の妥当性自体に疑問がある上、その前提となる基準地震動S2の設計用模擬地震波を作成するについて考慮すべき地震の選定にも疑問が残るから、本件原子炉敷地に、被告が想定した基準地震動S1、S2を超える地震動を生じさせる地震が発生する具体的可能性があるというべきであ」るとした。「本件原子炉の安全審査は、耐震設計審査指針にしたがってなされたものであり、平成12年10月6日の鳥取県西部地震、その後公表された地震調査委員会による邑知潟断層帯に対する評価や平成17年宮城県沖地震によって女川原子力発電所敷地で測定された最大加速度振幅等の情報が前提とされていないことが認められるから、本件原子炉の耐震設計が上記安全審査に合格しているからといって、本件原子炉の耐震設計に妥当性に欠けるところがないとは即断できない。」「以上の被告の主張、立証を総合すると、原告らの立証に対する被告の反証は成功していないといわざるを得ない。よって、本件原子炉が運転されることによって、周辺住民が許容限度を超える放射線を被ばくする具体的危険が存在することを推認すべきことになる。」(同上76-77頁)
このように、この判決は、耐震設計に関する審査基準が不合理なものとなっているとして原告勝訴の判決を下したものと評価できる。判決は想定を越えた地震の発生の可能性があり、同時多発的な故障が発生し、原子炉の多重防護が破られ、炉心溶融事故の可能性もあることを指摘していた。まさに、今回の福島原発事故の発生を予言した司法判断であったといえる。
4 保安院による原子力安全委員会に対する強要
この判断に焦った安全委は議論の収束と改定を分科会に強力に要請し耐震指針は 2006年9月に改定され、津波についても前記の通り初めて明文化された。
改定指針への適合まで運転を認めない「バックフィット方式」ではなく、より緩やかな「バックチェック方式」が採用された。原子炉の運転継続は認めるが、なるべく早く改定された耐震指針への適合性をクリアするよう電力会社に努力を促すこととした。
2006年9月原子力安全委員会、指針策定と同時に保安院指示に基づく旧指針に基づく許可の有効性を認める見解を公表した。弁護側は、あらためてこの見解を6月12日の公判で証拠請求した。しかし、この原子力安全委員会の見解は伊方最高裁判決と矛盾するものであり、この当時の原子力安全関係者の目から見ても、合理的とはいえないものであった。そして、その背景には、次のような保安院による原子力安全委員会に対する圧力が存在した。
5 2006年4月保安院指示文書の犯罪的な内容
これに先だって、志賀原発の原告勝訴判決の直後、2006年4月保安院は次のような指示文書を出していた。
この原子力安全・保安院名義の文書は「『発電用原子炉施設に関する耐震設計審査指針』改訂に向けて注意すべき点」と題するもので、このような北陸電力の敗訴による影響が全国の原発に広がることが問題とされていた時期にあたる2006年4月に原子力安全委員会に提出されたものである。この文書を、本書の末尾に添付する。
なお、この文書ももちろん非公開であった。これが公開されたのは、福島原発事故後の2012年5月のことである。この経過を示すために、2012年6月1日付けの日弁連会長声明も添付する。
文書は旧指針が原子炉等規制法の許可要件である「災害の防止上支障がない」という審査基準として不合理になったことを意味するものではないことを明示する必要があると原子力安全委員会に要求したものである。このような表明がないと、「現在の知見に照らせば、4号要件を満たしていないものであるとの批判が立地自治体やマスコミ等においても厳しくなり、これへの確たる反論ができない既設原子炉は、事実上運転停止を余儀なくされる」、国会でもこのような原発建設を認めた「行政庁・原子力安全委員会の見解・責任を厳しく追及されることは必定」などとし、原発訴訟では「特段の立証活動なしには到底敗訴を免れない」としている。この文書が国会対策と訴訟対策のために出されたものであることは明らかである。原子力安全委員会の有識者は「たびたび証人として出廷を強いられる事態」も発生しうるなどと、原子力安全委員会の委員を威迫し、対応を強要するような内容となっている。2006年9月の原子力安全委員会の前記文書は、このような圧力に屈して出されたものである。
6 保安院指示に屈した原子力安全委員会
伊方判決の「現在の科学技術水準」を判断基準とすべきとの考えからすれば、このような指示は誤っており、新指針の意義を自己否定したものであった。しかし、原子力安全委員会はこのような保安院の指示に屈したといえる。
原子力安全委員会は、「既設の原子力施設の耐震設計方針に関する安全審査のやり直しを必要とするものでもなければ、個別の原子炉施設の設置許可又は各種の事業許可等を無効とするものでもない。」、バックチェックは、「あくまでも法令に基づく規制行為の外側で、原子炉設置者等の原子力事業者が自主的に実施すべき活動として位置づけられるべきである」としてしまったのである。
7 安全委による電力への強い指示
しかし、当時、原子力安全委員会は電力各社に対して、3年以内にバックチェックに合格しなければ、運転停止もあり得るという厳しい指示をしていたこともわかってきている。
すなわち、安全委事務局で耐震指針の改定を担当する審査指針課長を務めた 水間英城氏が、共同通信の鎭目記者の2015年1月インタビューに対して次のように述べたという。
雑誌『科学』2015年12月号に掲載された共同通信社の鎭目宰司記者による「漂流する責任―原子力発電をめぐる力学を追う(上)」においては、当時の原子力安全委員会の事務局で審査指針課長を務めていた水間英城氏が平成27年(2015年)1月のインタビューで、耐震指針の策定中であった平成17年(2005年)頃に、保安院と電力会社の担当者を集めて、「事務的打ち合わせ」を開き、次のように述べていたと言う。
電力各社に対し水間氏は「3年以内(13カ月に1回行う)定期検査2回以内でバックチェックを終えてほしい。それでダメなら原子炉を停止して、再審査」と、強く求めたという。(中略)水間氏は、バックチェックの実務を担う保安院の佐藤均原子力安全審査課長らにも念を押したという。
「『耳をそろえて3年以内に』と言った。(電力会社は)耐震指針検討分科会の議論も見ていたのだから、常識的にそれぐらいでできるだろうと。現に(2006年)9月20日の(保安院)指示文書を受けて電力が10月に出した計画では、3年以内に終えることになっていた」
「とにかく補強して下駄をはかせれば(改定指針の要求を)満たす、という状態ならオーケー。原許可(原発建設時の国の許可)は変えなくていい。ただし、3年経ってもバックチェックを完了しない状態であれば伊方判決の『原許可取り消し』があるから駄目だよと。バックチェックは(原発の耐震安全性を問う)実力勝負だから」
この証言は貴重なものである。なぜなら、原子力安全委員会は保安院に対して、3年以内に耐震バックチェック作業を終えるよう要求し、電力会社も当初はこれに従っていたことがわかるからである。
8 福島第一の耐震バックチェック2009年6月期限は絶対的なものであった
すくなくとも、高尾氏の証言によれば、2008年6月の段階でも、福島第一の耐震バックチェック最終報告は2009年6月が期限であったことがわかった。だからこそ、高尾氏は2008年7月23日の四社連絡会で、2008年10月までに津波対策工事のプランを確定すると東北電力や日本原電にも宣言したのである。
このような方針が貫かれて、保安院によって対策が強く指示され、2009年6月ないし遅れたとしてもその後速やかに耐震バックチェック作業(津波対策を含む)が完了するような状況が実現していれば、福島第一原発事故は防ぐことができたのである。
世間の風向きを受けて、保安院は、2006年の段階では、電力会社に対しては一定程度、強い姿勢で臨んでいた。しかしこのような保安院の当時の姿勢は、その後、どんどんおかしな方向に変わっていってしまった。具体的に、どのような話し合いが、誰と誰の間でどのようになされて、期限の延期が認められていったのか、どうしてそうなってしまったのかということは、よくわかっていない。
福島第一原発の場合は、プルサーマルの推進が経済産業省の大方針となる中で、耐震性・耐津波性の強化はネグられていったようにみえる。この点の解明こそが、本件で、被告人らの有罪判決を確実なものにするために極めて重要な課題なのである。
9 2006年の保安院が持つ二面性
原子力安全委員会だけでなく、保安院の姿勢にも、外向けの言い訳と内向けには電力に厳しく指示する二面性を持っていた。そして、この時点では、保安院は「不作為」を問われる可能性があると考えていたのである。
新指針を決めた2006年に、保安院が電力会社に対して何と言っていたかを見てみたい。9月13日に、保安院の青山伸、佐藤均、阿部清治の3人の審議官らが出席して開かれた安全情報検討会(保安院、電事連、原子力安全基盤機構の三者が定期的に集まる会合)では、津波問題の緊急度及び重要度について「我が国の全プラントで対策状況を確認する。必要ならば対策を立てるように指示する。そうでないと『不作為』を問われる可能性がある」と報告されていた。保安院も、このように、相当厳しい意見を言っていたのである。
さらに、国会事故調報告書によると、2006年10月6日の耐震バックチェックに係る耐震安全性評価実施計画書についての全電気事業者に対する一括ヒアリングで、次のような口頭指示がなされていた(国会事故調報告書87頁)。
保安院は、2006年10月6日に、耐震バックチェックに係る耐震安全性評価実施計画書について、全電気事業者に対する一括ヒアリングを開いた。この席上で、保安院の担当者から津波対応について「本件は、保安院長以下の指示でもって、保安院を代表して言っているのだから、各社、重く受け止めて対応せよ」とし、以下の内容が口頭で伝えられた。
「バックチェック(津波想定見直し)では結果のみならず、保安院はその対応策についても確認する。自然現象であり、設計想定を超えることもあり得ると考えるべき。津波に余裕が少ないプラントは具体的、物理的対応を取ってほしい。津波について、津波高さと敷地高さが数十㎝とあまり変わらないサイトがある。評価上OKであるが、自然現象であり、設計想定を超える津波が来る恐れがある。想定を上回る場合、非常用海水ポンプが機能喪失し、そのまま炉心損傷になるため安全余裕がない。今回は、保安院としての要望であり、この場を借りて、各社にしっかり周知したものとして受け止め、各社上層部に伝えること」
このように、平成18年(2006年)当時の保安院は二面性を持っているといえる。新しい耐震設計審査指針に基づいて審査して合格しなければ動かさせないというところまではやらないが、電力会社に対してキチンと3年以内に対策を採れと圧力を加えていたのである。
10 福島第一の耐震バックチェックの遅れの原因は不明
(1)耐震バックチェックの最終期限は2009年6月であった
国会事故調は「耐震バックチェックの終報告結果が公表された際に、原発の立地する地元住民が結果を問題視することによって原子炉が停止するリスクを懸念し、耐震バックチェック結果の公表は耐震補強工事が終了した後に行うこととされ、また、原子炉の稼働率を優先するため、耐震補強工事は定期検査の検査期間中にのみ実施されるよう計画された。そして、耐震バックチェックと耐震補強工事の予定及び進捗が公表されることはなかった。
耐震バックチェックと耐震補強工事の遅れについて、保安院の耐震安全審査室長(小林氏-引用者注)は「(平成 23〈2011〉年時点において)耐震バックチェックの終報告書の期限が平成24(2012)年以降では遅い旨を伝え」また、「定期点検のタイミングで耐震補強が施されるのであれば、相当の時間がかかることも理解しており、原子炉の稼働を止めて工事を行うべきと考えていた」とコメントしている。 ただし前述のとおり、最終報告書の提出予定は平成28(2016)年の予定となっていたが、保安院は耐震バックチェックの進捗管理を行っておらず、東電も具体的なバックチェックのスケジュールを保安院に伝えることはなく、直近の耐震バックチェックスケジュールが対外的に公表されることはなかった。」と記述している(国会事故調491-492頁)。
しかし、福島第一の耐震バックチェックの最終報告期限が2009年6月であることは、2008年3月の中間報告時に東電によって公表されていたのであり、この期限がどのような手順で遅延していったのかは、未だ解明されていない。ただ、その片鱗は、政府事故調の作成した保安院関係者の調書に見え隠れしている。
(2)貞観津波保安院ヒア
2009年9月に東京電力が貞観の津波の試算結果を保安院に説明した。この説明会に小林勝・保安院耐震安全審査室長(当時)は当初欠席したと証言していた。これは、後に訂正され、当初から出席していたことを同氏は認めた。小林氏の政府事故調調書には次のやり取りが記録されています。
小林「ちゃんと議論しないとまずい」
野口・審査課長「保安院と原子力安全委の上層部が手を握っているから余計なことをするな」
原昭吾・広報課長「あまり関わるとクビになるよ」
野口氏は、前任が経産省資源エネルギー庁で、プルサーマルを推進する立場にいた人である。プルサーマル政策推進の立場にある職員が、規制側の審査課長という畑違いのポストに来て、安全審査に取り組んでいた小林氏を恫喝するようなことを言っていたこととなる。保安院と原子力安全委の上層部が手を握っているとは具体的にどのようなことなのか、解明されていない。2006年の段階の保安院と比べても、規制当局として著しく劣化していることがわかる。それを劣化させたのが、野口氏らプルサーマル推進派であった。
(3)驚くべき森山メール
2010年3月24日午後8時6分に、保安院の森山善範審議官が原子力発電安全審査課長らに送ったメールが残されている。以下の記載がある。
「1F3(福島第一原子力発電所三号機)の耐震バックチェックでは、貞観の地震による津波評価が最大の不確定要素である」
実は森山氏はこの時点では15.7メートルのシミュレーションのことは知らない。
「福島は、敷地があまり高くなく、もともと津波に対しては注意が必要な地点だが、貞観の地震は敷地高を大きく超えるおそれがある。」「津波の問題に議論が発展すると、厳しい結果が予想されるので評価にかなりの時間を要する可能性は高く、また、結果的に対策が必要になる可能性も十二分にある。」
この点も、東京電力の認識とはちょっとズレています。東京電力側の人たちは、絶対に対策をやらなければならないことが分かっていて、それを先延ばしにしていたのですが、森山氏は15.7メートルのことはまだ見せられていません。
「東電は役員クラスも貞観の地震による津波は認識している。」「というわけで、バックチェックの評価をやれと言われても、何が起こるかわかりませんよ、という趣旨のことを伝えておきました。」
このメールは、保安院が貞観の津波の危険性をはっきりと認識していたことを示す、動かしがたい証拠である。
ここに現れている東京電力と保安院、資源エネルギー庁の関係を時代劇風に言い表すならば、たとえば東京電力は越後屋、そして保安院は悪代官です。エネ庁は悪代官の上役の幕府の老中という役回りとなるだろうか。越後屋は悪代官を徹底的に骨抜きにしている。そして手玉に取っている。しかし、一番大切なことは教えないで、欺いているのだ。「おぬしも悪よのう」とか言われながら、一番不都合なことは教えない、それが東京電力なのである。しかし保安院が半分の事実(貞観の津波のこと)を知りながら、「お主も悪よのう」と言っていたことがわかる。東京電力の方が一枚上手なのは事実ですが、保安院は単純に騙されていたとはいえない。そして、保安院をここまで腐敗させた力は、野口氏ら資源エネルギー庁からの「プルサーマル優先で、津波対策など後回し」という圧力だったことがわかる。本当の悪は、資源エネルギー庁の中にいるのかもしれない。
保安院は、平成21年(2009年)に終了する約束だったはずの耐震バックチェックの作業の6年もの延期をすんなりと認めてしまった。津波対策を取らなければ、「不作為を問われる」と言っていた組織の、これほどの劣化についてきちんとメスを入れなければ、保安院のほとんどの人員をそのまま引き継いだ規制庁は、同じ誤りを犯してしまうことだろう。
11 運転を継続する以上原発の安全対策はどれも緊急で切迫したものである。
原発に求められる安全性は、高度のものである。このことは、伊方最高裁判決も認めていたことである。新指針に基づくバックチェック制度とこれに関する前述した原子力安全委員会見解が、旧指針による設置許可を無効としないという非徹底さを残していたことが、新指針による既設原発の耐震安全性に対する再審査を緊張感のない不十分なものとした。
本件の最大の争点は政府の地震調査研究推進本部の長期評価にもとづいて津波対策を講ずるべきであったかどうかであるが、推本の長期評価は権威ある国の機関によって公表されたものであり、科学的根拠に基づくものである。大規模な津波地震の発生について推本の長期評価が一定程度の可能性を示していることは極めて重い。
2006年9月に策定された新しい耐震設計審査指針において、津波について、原子力発電所の設計においては、「施設の供用期間中に極めてまれではあるが発生する可能性があると想定することが適切な津波によっても、施設の安全機能が重大な影響を受けるおそれがないこと」が要求されていた。
この文言の意味について、指針を策定した責任者と言うべき原子力安全委員会の水間英城氏は、政府事故調の平成23年8月2日付け聴取報告書において、「1万~10万年をイメージとして持っていた」「確率論の専門家は10-4オーダーとの共通認識を持っていたと思う」とのべている。
行政訴訟における最高裁の判示と安全審査指針の文言とその共通理解に基づいて、1万~10万年に一度のまれな自然現象についても考慮しなければならなかったのである。このことを正確に理解していたからこそ、原子力安全の専門家である高尾氏と酒井氏は、推本の長期評価に伴う津波対策は不可避であると考えたのである。
さらに、今村文彦証人の間違いは、この原子力安全のイロハを理解せず、繰り返している事象、切迫性のある事象以外には対応しなくてよいと考えていたことである。
政府の地震調査研究推進本部の最新の科学知見を原発の安全性判断に反映させるという当たり前のことができなかったことが事故の原因である。次なる重大事故を引き起こさないためには、この誤りを繰り返してはならない。そのためにも、被告人ら対する有罪判決が求められている。
参考資料
*日弁連会長声明 2012年6月1日*保安院文書 「発電用原子炉施設に関する耐震設計審査指針」改訂に向けて注意すべき点」
*政府事故調 水間英城調書 2011年8月1日の7P